第8話 ふぐの歴史を紐解く-ふぐ食の文化編-シリーズその③
2014.8.8 カテゴリー:とらふぐのあれこれ, ふぐの歴史について
2000年前の縄文時代から食べられていたとされる、ふぐ食の文化が残る我が国日本。その食べ方は明らかではありませんが、煮たり、焼いたり、保存食として干しものなどにして食べていたのではないかと言われています。江戸時代から、ふぐ食の文化は少しずつふぐ料理としての形へと変わっていきました。
江戸時代のふぐ食の文化は、ふぐ汁やふぐ鍋です。近海で釣ったクサフグやショウサイフグを、丸むき(頭、内臓、皮を取り除いた部分)にして食べるのが一般的でした。その後、日本の食文化には欠かせない〝味噌汁〟の中に、ふぐの丸むきを入れて食べていたようです。
ふぐ食の文化は、幕末維新の頃に大きく変わり始めました。瀬戸内や玄海灘などの漁場が近いこともあり、とらふぐの終着地として、下関でふぐ刺しやふぐちりなどの料理が開発されました。その後、大阪がとらふぐの消費地として、庶民の味として浸透していきました。昭和20年代は、大阪でのとらふぐの消費が全国の50%以上あったと言われていることから、現在のふぐ料理は、大阪がルーツと言えるでしょう。
一方東京都では、昭和24年ふぐの取り締まりに関する条例を制定し、全国で初めてふぐ調理師の試験が行われています。条例では、都知事が行う試験に合格したふぐ調理師以外の人がふぐの取扱いに従事することを原則として禁止しています。また、飲食店や魚介類販売店などでふぐを取扱う場合、店舗ごとに専任のふぐ調理師を置き、都知事の認証を受けることが義務付けられています。
平成24年10月から、これまでふぐ調理師でなければ取り扱えなかったふぐ加工製品について、ふぐ調理師以外の人でも一定の条件を満たせば取扱うことができるようになりました。とらふぐ生産者は、東京での販路拡大により、安定した消費が望めることを喜んでいました。しかし実際は、とらふぐの消費は伸び悩み、低価格なシロサバフグやショウサイフグ、マフグの需要が高まっただけでした。とらふぐ生産者は、期待が大きかったことから、肩透かしを食らってしまいました。
話は戻りますが、私は幼少期に大阪で育ち、〝タコ焼き〟と〝とらふぐ〟は、大阪府民の食べ物としてなくてはならないものでした。とらふぐの専門店だけではなく、居酒屋でも欠かせないメニューになっています。また、とらふぐをお歳暮として贈ったり、スーパーやデパート、大阪の台所として有名な黒門市場でとらふぐを買って、ご家庭で食べる習慣も大阪のふぐ文化と言えます。年末には、黒門市場では、飲食店以外のお店にもとらふぐが店頭に並び、1日10万人のお客が足を運びます。そのお目当ては、カニやマグロ、そして何と言ってもふぐの王様〝とらふぐ〟です。食いだおれの街〝大阪〟は、美味しいとらふぐを食べられる国民の台所と言えるでしょう。大阪に行かれた際は、ぜひ本場のとらふぐを味わってください!!
第8話は、ここまで。第9話をお楽しみに。
天草海産 3代目 〝福の宅配人〟太田雄三